しらんがな

なんでもない人。読んだ後は心で叫びまひょう。「あんたのことなんか知らんがな!」

おとな

 

私はね、いいひとになりたかないよ。

私はね、いいおとなには、きっとなれぬ

大人は、大きい人と記すのに

 

どうして

子供は、子と供と記したのだろう

こども

子ども

「こども」の表記が、子供はダメと

言ってた人がいた。

大人の供の意になるからと

だから子どもと書いた。ずっと

 

でも本当は、こうも思う

そんな言葉や表記は大事かいと。

たしかに皆が、表記する言葉は

あった方が便利だ。

そう便利なんだ。

 

一つを、大きくひとまとめに見るのは

皆で共有するとき便利だとは思う。

だけど

1人1人本当に見ちょることになるか?

 

いつの世も

いい言葉は、あるし

綺麗な話は、あって

本当に中身が美しい話は、本当は中身が

残酷であるようにも思う。

残酷であるがゆえ美しさを生み出してく

綺麗な話と美しい事実は、

まるで違う。

 

ええ言葉が溢れてる。

便利なものは、すぐ便利でなくなる

そう、もう一つ溢れてるものがある

名前や表記やら、言葉や。 

「こども」「子ども」「子供」?

ほんまは、どないでもえんちゃうのか

子どもと記す人間が、ほんまに愛情注いでるのか??

大人の供と意味を、つけた人の意は

貴方が思う意と本当に同じか?

 

中身がないまま綺麗な外見

が、溢れてる

これからは、もっと溢れてくんちゃうか

子どもは、一人前ではないし

守られる必要があるし

正しさは、皆違えど

誰かに守られ子は、大人になっていく

僕らもみんなせやった

誰かちゅうのは、ほんまの親かもしれん

もう死んでる人が作った何かかもしれん

順番やと思う

守られたなら次は、守る側

恩返しよりも本当に日本人が

大事にしはったのは、「恩送り」の

心でないかとつくづく思う。

 

中身がない綺麗な外見は、

ほんまに美しいのか

美しいと言っていいんか。

美しいことにして

目背けてええんか

 

子どものとき皆が、どうかは知らん

けど聲のだしかたを知らん子は

たしかにおった。  

 

 

私は、嫌いや

いい人がいい大人という言葉が嫌いや

大嫌いや。

 

この国にこれから生まれる子は

何に教育で学校で

出会えればその子の幸せにつながるんや

わからへん。

 

でも、多くの子が何かに出会える

きっかけの場は

学校の気がしています。

そう思って生きてるけど

何もわかりません。